談話室
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ともによりよく生きるために (工事中)

 縁あって
 おたがいに、縁あってこの世に生まれてきた。そして、縁あっていろいろの人とつながりを持っている。
 縁あってー何だか古めかしいことばのようだけれど、そこにはまた一つの深い味わいがひそんでいるように思える。
 人と人のつながりというものは、とかく人間の個人的な意志でできたと思いやすいもので、だからまたこのつながりは、自分ひとりの考えで、いつでも断てるかのように無造作に考えやすい。
 だがほんとうはそうでない。人と人のつながりには、実は人間のいわゆる個人的な意志や希望を越えた、一つの深い縁の力が働いているのである。男女の縁もまた同じ。
 そうとすれば、おたがいにこの世における人と人とのつながりを、もうすこし大事にしてみたい。もうすこしありがたく考えたい。不平や不満で心を暗くする前に、縁のあったことを謙虚に喜び合い、その喜びの心で、誠意と熱意を持って、おたがいのつながりをさらに強めてゆきたい。
 そこから、暗黒をも光明に変えるぐらいの、力強い働きが生まれてくるであろう。

あいさつをかわす
 さわやかな朝の空気を胸いっぱいに、わが家の前の道を掃除する。勤めの早い近所の人が向こうからやって来る。”おはようございます”“おはようございます”
 何気なくとりかわすこの朝のあいさつは、毎日の習慣のように、何でもないことのように思えたりするのだが、私たちは、もう少しあいさつの大切さを考えてみたい。“ゆうべは寒かったですね”という、おたがいにいたわりあう気持ちから出たこのあいさつで、あるいは“毎度お世話になっております”というこの感謝の気持ちから出たあいさつで、おたがいの用件にはいる。仕事がスムーズに動き出す。だれが考え出したものでもない。私たちの遠い祖先から伝わってきたこのあいさつというものは、いわばおたがいの毎日の暮らしの潤滑油とでもいった尊い働きを果たしているのである。“お寒うございます”と言ったところで暖かくなるわけでないし、というのは落語の中の話だけにしたいものである。
 あいさつにもいろいろとあろうが、要は、私たちはもっと、あいさつというものを大切にしたい。明るく朗らかに、あいさつをかわしあうことを心がけたいものである。

サービスする心
 与え与えられるのが、この世の理法である。すなわち、自分の持てるものを他に与えることによって、それにふさわしいものを他から受けるのである。これで世の中は成り立っている。
 だから、多く受けたいと思えば多く与えれればよいのであって、充分に与えもしないで、多く受けたいと思うのが、虫のいい考えというもので、こんな人ばかりだと、世の中は繁栄しない。
 与えるというのは、わかりやすくいえば、サービスするということである。自分の持っているもので、世の中の人々に精いっぱいのサービスをすることである。頭のいい人は頭で、力のある人は力で、腕のいい人は腕で、優しい人は優しさで、そして学者は学問で、商人は商売で・・・。
 どんな人でも、探し出してくれば、その人だけに与えられている尊い天分というものがある。その天分で、世の中にサービスをすればよいのである。サービスのいい社会は、みんなが多く与えあっている社会で、だからみんなが身も心もゆたかになる。
 おたがいに繁栄の社会を生み出すために、自分の持てるもので、精いっぱいのサービスをしあいたいものである。

長所と短所
 この世の中は持ちつ持たれつ、人と人との共同生活によって、仕事が成り立っている。暮らしが成り立っている。
 この共同生活を円滑に進めるためには、いろいろの心くばりが必要だけれど、なかでも大事なことは、おたがいにまわりの人の長所と欠点とを、素直な心でよく理解しておくということである。そしてその長所を、できるかぎり発揮させてあげるように、またその短所をできるかぎり補ってあげるように、暖かい心で最善の心配りをするということである。
 神様ではないのだから、全知全能を人間に求めるのは愚の限りである。人に求めるほうも愚なら、いささかのうぬぼれにみずから心おごる姿も、また愚である。人を助けて己の仕事が成り立ち、また人に助けられて己の仕事が円滑に運んでいるのである。この理解と心くばりがなければ、百万の人も単につのつき合わした烏合の衆にすぎないであろう。
 長所と短所とーそれは人間のいわば一つの宿命である。その宿命を繁栄に結びつけるのも、つまりはおたがいの心くばり一つにかかっているのではなかろうか。

辛抱する心
 どんな人がいい人で、どんな人がわるい人か、それは一概にはいえないけれども、国の法を犯す人はもちろんのこと、おたがいによくない人だと思う人々は、浜の真砂のつきざる如く、昔も今もいっこうになくなりはしない。
 万物すべてかくの如し。真善美を求めるのは、人みなの思いだが、どんなに求めても、美ならざるもの、正ならざるものは、やはりなくなりはしない。それはいつの世にも美なるものと相交わって存在し、美醜とりまぜて、それでこの自然が成り立っているのである。この世が動いているのである。
 だからこそ、おたがいに辛抱ということが大事なのである。寛容の精神が大事なのである。いい人もいるけれども、よくないと思う人もなかなかなくならない。それが世の中というものであるならば、辛抱と寛容の心がなかったら、いたずらに心が暗くなるばかりで、この世の住みにくさを嘆くだけであろう。
 人と人が相寄って、毎日の暮らしを営み、毎日の働きをすすめているのである。いい人ばかりではない。いろんな人がいる。だからおたがいに、いますこし辛抱と寛容の心を養いたいものである。

生かし合う
 人間の生命は尊い。尊いものは誰もが尊重しなければならぬ。ところが、自分の生命の尊いことはわかっても、他人の生命もまた尊いことは忘れがちである。ともすれば私心に走り私利私欲が先に立つ。つまり、自分にとらわれるということで、これも人情としてやむをえないことかもしれない。
 しかし、これでほんとうに、おたがい相互の繁栄は生まれないであろう。人間本来の姿は生かされないであろう。
 やはり、ある場合には自己を没却して、まず相手を立てる。自己を去って相手を生かす。そうした考え方にも立ってみなければならない。そこに相手も生き、自己も生きる力強い繁栄の姿がある。尊い人間の姿がある。
 自己を捨てることによってまず相手が生きる。その相手が生きて、自己もまたおのずから生きるようになる。これはいわば双方の生かし合いではなかろうか。そこから繁栄が生まれ、ゆたかな平和と幸福が生まれてくる。
 おたがいに、ひろく社会の繁栄に寄与するため、おたがいを生かし合う謙虚なものの考え方を養いたい。

責任を知る
 自分に全く関係ないところで、自分に全く関係ないと思うことが起こって、だから自分には全く責任がないと思うことでも、よくよく考えてみれば、はたして自分に全く責任がないと自信をもっていうことができるであろうか。
 人と人とが、かぎりないまでにつながりあっているこの世の中に、自分とは全然関係ないといえることが、本当はあるとは思われないのである。
 キリストは、その時代の見も知らぬ人々の責任も、すべてわが身に負い、そのうえに、後の世につづく数知れぬ人びとの責任をも、その気高いまでの魂で、一身に引きうけた。
 おたがいに、そこまで求めるのはとてもムリ。キリストなればこそである。しかしせめて、自分に責任あると思うことまでも、他人のせいにすることだけはやめにしたい。犬や猫は、自分がわるくても、自分の気に入らなければ、平気で同類にかみつき、傷つける。
 人間とは、天地自然の理によって、ハッキリちがっている。そのちがっていることの尊さを、みずからけがすことだけはやめにしたいと思うのである。

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